熊谷次郎直実とは

熊谷直実(くまがいなおざね)について

熊谷次郎直実(1141-1207)

平安末期から鎌倉時代初期、武蔵国熊谷郷(現・熊谷市)で活躍した武将。父・直貞は熊谷郷の領主となり、熊谷の姓を名乗る。当初は平家に仕えていたが、石橋山の戦い以降、源頼朝の御家人となり、数々の戦さで名を上げ、鎌倉幕府成立に貢献する。

一ノ谷の戦いでは、平家の若武者、平敦盛を打ち取るが、息子ほどの年齢の若者の命を奪ったことによって戦の無情さや世の無常観を感じ、心に深い傷を負う。これが後の出家の動機となったといわれる。この時のことは「平家物語」の中に描かれ、能や歌舞伎でも熊谷直実の無常観として上演されている。

もともと気性が荒く、直情型で反骨精神の強い直実は 源頼朝の命令を拒否したため領地を没収されたり、挙句には領地問題の訴訟に際して 頼朝の目前で髪を落とし、出家してしまう。

その後、法然に弟子入りし蓮生(れんせい)と名乗り、京都・東山で修行を重ねる。直実は熱心な念仏信者となり、各地に寺院を開基している。

熊谷市では、郷土が生んだこの歴史上の人物を郷土の誇りとしてたたえ、駅前にブロンズ像を建てた。最近では熊谷直実を通じて地域をPRしようと、キャラクター化を試みるなどの活動も行われた。

 

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写真:JR熊谷駅前ロータリー広場に建つ熊谷次郎直実ブロンズ像

 

生い立ち

直実(なおざね)の父・直貞の時代から大里郡熊谷郷(現・熊谷市)の領主となり、 熊谷の姓を名乗った。 2歳のとき、父は亡くなり、直実は母方の伯父である久下直光(くげ なおみつ)に 育てられる。

幼名は弓矢丸といい、弓の名手であったという。

 

武将・直実

1156年の保元の乱、1159年の平治の乱では源氏の指揮下で戦う。
ある時、養父である久下直光の代理として京都へ上がり、 皇居の警備に当たる。 しかし、京都の生活は華やかな平家の武士に比べ、所持金もなく 日々の食事も満足に取れない、厳しいものであった。 そんな折、平家への士官の話を持ちかけられ、 養父・直光に無断で平清盛の第4子、平知盛の配下に入ってしまう。
直光は怒って、熊谷郷の一部を直実から取り上げてしまう。 そのことがきっかけで、直実は養父・久下直光のもとを去り、 自立後は平家に仕える。
1180年、石橋山の戦いでは平氏に従い、源頼朝の兵と戦う。 この時、逃げる頼朝を救ったという話が残されている。
この後、直実は源頼朝に臣従。 陸奥の佐竹征伐では先陣をきって戦い、名をあげる。 この軍功で直実は郷土熊谷の支配権を約束される。
1184年、富士川の戦い、一ノ谷の戦いでは義経に従って、武功をあげる。
直実は源平合戦の中でも、当代随一の剛の者として、常に先陣を切って 敵陣に挑んでいる。戦国時代の武将として幾多の敵を打ち取ってきた兵(つわもの)である。 しかし、一人の若武者を打ち取ったことを生涯後悔する。 それは一ノ谷の戦いで起こった。 直実は海辺を逃げる平家の若武者を追い詰めたが 息子ほどの若さに驚き、逃がそうとする。しかし、味方が追ってきたため 仕方なく打ち取る。後日、打ち取った若武者が17歳ほどの平敦盛であると知り、斬りたくない相手も切らなければならない武士の非情さや世の無情さに苛まれ、 後悔の念を抱く。これが、直実がのちに仏門に入る大きな動機となったといわれている。 直実が敦盛を打ち取るという戦の非情さ、無常感を表す「平家物語」のエピソードは脚色されて、「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」として歌舞伎の人気演目の一つになっている。 1190年、直実は敦盛の7回忌に高野山に熊谷寺を建立し、敦盛の供養塔を建てている。

熊谷直実は直情型の、熱い武将だった。 1187年、鶴ヶ島八幡宮での流鏑馬の際しては、源頼朝からに「的立て役」を命ぜられるが、弓の名手である直実には屈辱的で、頼朝の説得にもかかわらず、拒否したために所領の一部を没収されてしまう。また1192年、養父であった久下直光との所領争いでは、幕府に訴え出て頼朝の裁判を受けることになったが、その面前で「どうせ不利な判定が出るに決まっている」と怒って書類を叩きつけ、飛び出してしまう。 熊谷郷に戻る途中、直実は髪を切り、武士を捨てる決意をする。

 

出家

久下直光との所領争いに敗れた直実は、家督を嫡子直家に譲って出家。

1193年、京都に赴き、出家して浄土宗の開祖である 法然上人に弟子入りし、蓮生(れんせい)と名乗る。

蓮生は1193年に美作国久米南条稲岡庄(現・岡山県久米郡久米南町)の法然生誕地に誕生寺を建立したのを皮切りに、 1195年には東海道藤枝宿に熊谷山蓮生寺を建立。 1197年、京都の錦小路東洞院西の父直貞の旧地に法然を開山と仰ぎ、御影を安置して法然寺を建立した。

1198年、粟生の西山浄土宗総本山光明寺を開基する。

熊谷郷に戻った後は、現在の熊谷寺(ゆうこくじ)で念仏三昧の生活を送った。